共同編集:株式会社ビーツ/ワールド・モード・ホールディングス株式会社
ライター:柏木又浩
本稿は、世界最大級の小売業界カンファレンス「NRF(全米小売業協会)」で行われた注目セッションをもとに、ラグジュアリー業界の巨人、「LVMH モエ ヘネシー ルイ ヴィトン(LVMH Moët Hennessy Louis Vuitton、以下LVMH)」のAI戦略を読み解くアナリストレポートである。伝統とクラフトマンシップを何よりも重んじてきたラグジュアリーブランドが、その本質である「人間らしさ」を損なうことなく、いかにしてAIという最先端技術を取り入れようとしているのか。この問いは、デジタル変革が加速する現代において、極めて重要な経営テーマのひとつだといえる。
本稿では、LVMH オムニチャネル&データ最高責任者のゴンザーグ・ド・ピレ(Gonzague de Pirey)と、グループを象徴するメゾンであるルイ ヴィトンのクライアント・デベロップメント&デジタル担当グローバル・シニア・バイス・プレジデント、スミア・ハジャリ(Soumia Hadjali)の議論をひもときながら、同社が掲げる独自の人間中心型AI哲学、その具体的な実行戦略、そして彼らが見据えるラグジュアリーの未来像を多角的に考察していく。
1. LVMHの核となる哲学:「クワイエット・テクノロジー」と人間中心のAI
LVMHのAI戦略を理解する上で、まずその基盤となる独自の哲学に触れる必要がある。この哲学こそが、テクノロジーとラグジュアリーの関係性を再定義し、単なる技術導入に留まる競合他社との明確な差別化を図る戦略的要諦となっている。
見えないテクノロジーの概念
セッションでド・ピレが強調したのは、LVMHが掲げる「クワイエット・テクノロジー(quiet technology)」という思想だ。これは、テクノロジーが顧客体験の背後で機能しながらも、ラグジュアリーの本質である人間的な価値を決して前面に押し出さないという考え方である。LVMHにとってラグジュアリーとは、本質的に芸術的創造、卓越した手仕事、そして顧客一人ひとりとの親密な関係といった、極めて人間的な側面によって成り立っている。
この思想に基づき、AIは効率化や自動化のための無機質なツールではなく、これらの人間的な要素を「高める(Augment)」ために存在する支援者として位置づけられている。AIは、職人やデザイナー、クライアントアドバイザーの能力を拡張し、彼らがより本質的な価値創造に集中できる環境を提供するための「見えない力」なのである。
4つのコアバリューとの連携
このAI戦略は、LVMHグループが掲げる以下の4つのコアバリューと深く連携している。
- 創造性 (Creativity)
- 卓越性 (Excellence)
- 起業家精神 (Entrepreneurship)
- ポジティブな影響 (Positive Impact)
AIはこれらの価値観を損なうものではなく、むしろその実現を加速させるためのツールとして導入されている。例えば、創造性を支援し、卓越した顧客体験を実現し、各メゾンの起業家精神を後押しすることで、ブランド価値全体を向上させる。これが、LVMHの人間中心AIの核心だ。
この揺るぎない哲学が、グループ全体の具体的な事業戦略としてどのように進化してきたのか、次に見ていこう。
2. 戦略から実行へ:「AI for All」への進化
理念を掲げるだけでは変革は成し遂げられない。このセクションでは、LVMHがその哲学をいかにしてグループ全体の具体的な実行計画へと落とし込んでいるかを分析する。ファッション、レザーグッズから宝飾品、セレクティブリテール(セフォラ)まで、75以上もの多様なメゾンを抱える巨大コングロマリットが、統一されたビジョンを共有しつつAI変革を推進するアプローチは、多くの示唆に富んでいる。
戦略的進化の段階
LVMHのAI戦略は、一夜にして生まれたものではない。以下の段階を経て、着実に進化を遂げてきた。
- 基礎構築: グループ全体でデータを活用するための基盤を整備。
- ユースケースの試行: 個別のプロジェクトでAIの有効性を検証し、学びを蓄積。
- 「AI for All」: これまでの学びを集約し、全従業員を対象とする包括的な変革計画へと昇華。
「AI for All」計画の分析
現在推進されている「AI for All」計画は、単なる技術導入プロジェクトではない。その最大の特徴は、効率化よりも「ビジネスの成長と顧客体験の向上」を最優先する、徹底したビジネス第一のアプローチにある。AIは、売上やブランド価値の向上に直接貢献して初めて意味を持つ、という明確な思想が貫かれている。
メゾンごとのアプローチ:統制と自律のバランス
LVMHは、各メゾンが持つ独自のDNAと文化を深く尊重している。そのため、グループ全体で画一的なAIソリューションを押し付けることはない。各メゾンが独自のAI変革計画を策定する自律性を持ちつつも、以下の3つの主要分野でベストプラクティスや技術基盤を共有するという、巧みな「統制と自律」のバランス戦略を取っている。
- 商取引 (Commerce)
- マーケティング (Marketing)
- オペレーション (Operations)
このアプローチにより、グループ全体のスケールメリットを活かしながら、各ブランドの独自性を毀損することなく変革を推進することが可能になっている。
では、この全社的な戦略が、グループの象徴であるルイ・ヴィトンでどのように具現化されているのか、さらに詳しく掘り下げていこう。
3. 実践の現場:ルイ ヴィトンにおけるAI活用術
前章で概説したグループ戦略が、ルイ ヴィトンという世界最高峰のメゾンでどのように実践されているのか。ここでは、AIが抽象的な概念ではなく、創造性と顧客サービスの現場で実用的な価値を生み出すツールとして機能している具体的な姿を明らかにする。
創造性の拡張:デザイナーの能力を解き放つ
ド・ピレが「創造性は、革新と本物の創造的表現を守ることの間で慎重なバランスが求められる繊細なテーマである」と述べたように、LVMHはこの領域に細心の注意を払っている。ルイ ヴィトンのハジャリが強調したのは、AIはデザイナーの創造性を「置き換える(Replace)」のではなく「拡張する(Extend)」という点だ。
- スタジオでの活用: 新しい素材の探求や膨大な数の色の組み合わせテストなど、これまで多くの時間を要した作業をAIが効率化する。これにより、デザイナーはより感情豊かなストーリーテリングや、サヴォアフェール(職人技)の追求といった、人間でなければ不可能な本質的作業に集中できる時間とエネルギーを得ることができる。
- 創造的意図の尊重: AIはあくまでアイデアを探求するための支援ツールであり、最終的な創造的意図や芸術的判断は、常に人間のデザイナーに委ねられる。この慎重な姿勢こそ、ブランドの魂を守る上で不可欠である。
顧客体験の深化:クライアントアドバイザーの戦略的ツール
店舗におけるクライアントアドバイザーの役割強化においても、LVMHの哲学は一貫している。目指すのは「自動化(Automation)」ではなく「支援(Augmentation)」だ。
- 人間的な関係構築への集中: AIは、顧客の過去の購買履歴や好みを分析し、パーソナライズされた提案のための深い洞察を提供する。これにより、アドバイザーはタブレットの画面操作に時間を費やすことなく、顧客との対話や人間的な関係構築といった、最も価値のある活動に集中できる。
- 人間らしさの維持: AIはクライアントアドバイザーにとって不可欠な戦略的ツールとなりつつも、その能力を補完する存在に留まる。各アドバイザーが持つ独自の個性、人間味、そして接客スタイルは維持・尊重される。テクノロジーが、人間性を画一化するのではなく、むしろその多様性を際立たせるのである。
これこそ、デザイナーやアドバイザーの能力を「見えない形」で拡張するCoyotech哲学の完璧な実践例と言える。そして、この実践例は、LVMHが目指すより広範なコマースの未来像へと繋がっていく。
4. 取引から関係へ:LVMHが描く「エージェンティックコマース」の全貌
LVMHのビジョンは、単なる商品販売に留まらない。彼らが構想するのは、顧客との永続的で親密な関係構築を目指す「エージェンティックコマース」という、極めて先進的な概念だ。このアプローチは、ラグジュアリー業界における顧客エンゲージメントの未来を根本から変える可能性を秘めている。
エージェンティックコマースとは
エージェンティックコマースの核心は、取引を超えた人間的なつながりを築くことにある。これは、店舗、ウェブサイト、顧客サービスといった従来の接点だけでなく、グループが展開するカフェやレストラン、さらにはアート展覧会といったエコシステム全体を統合し、個々の顧客に最適化された体験を提供するアプローチである。
「デジタルコンシェルジュ」の具現化
この概念を具体化したのが、ハジャリが語る「デジタルコンシェルジュ」体験だ。
- ライフスタイルの理解: AIは、顧客の購買行動だけでなく、記念日や趣味といったライフスタイル全体を理解する。例えば、顧客の結婚記念日が近いことを把握し、限定アート展覧会への招待、プライベートな店内でのショッピング体験、そしてディナーのためのレストラン予約までをシームレスに連携させ、提案することが可能になる。
- アドバイザーの役割の高度化: このような仕組みにより、クライアントアドバイザーは予約手配といった日常的なタスクから解放される。その結果、よりパーソナルで付加価値の高い関係構築に専念でき、顧客にとって唯一無二の存在となることができるのだ。
このような高度な体験をグループ全体で展開するには、各ブランドが持つ唯一無二の個性をいかにして守るかという、新たな課題が生じる。
5. スケールへの挑戦:統一性とブランドの独自性の両立
LVMHが直面する最も複雑な経営課題の一つが、グループ全体で技術基盤をスケールさせつつ、ルイ ヴィトン、ロエベ(Loewe)、ティファニー(Tiffany & Co.)といった各メゾンが持つ唯一無二のブランドDNAをいかにして維持するか、という点だ。この両立こそが、LVMHの持続的な成功に不可欠な鍵となる。
ブランドの真正性の保護
これはセクション2で述べた「統制と自律」という経営哲学が、いかにブランドの魂を守るという実務レベルの課題に直結しているかを示すものである。ド・ピレは、各メゾンが独自 の「語彙、話し方のトーン、顧客対応のスタイル」を維持する必要性を強く訴えた。LVMHの戦略は明確だ。データ基盤やアルゴリズムといったバックエンドの技術やベストプラクティスはグループで共有し効率化を図る一方、顧客と直接接するフロントエンドでは、各ブランドの個性を最大限に尊重し、その表現を支援する。
責任あるAIガバナンス
変革を成功させるには、「信頼」が不可欠だ。LVMHは、グループおよび各メゾンレベルにAI担当者を配置した専用のガバナンス体制を整備。これにより、AIが責任ある形で導入・運用されることを保証している。さらに、特にブランドの生命線であるクリエイターやデザイナーとの信頼関係構築に注力し、AIが彼らの創造性を守り、高める存在であることを示している。
規律ある優先順位付けのフレームワーク
ハジャリは、初期の試行錯誤から得た「同時に多くのことを試みすぎた」という貴重な教訓を共有した。この経験から、LVMHはリソースを集中させ、真に価値のある施策を卓越して実行するための、規律ある優先順位付けのフレームワークを導入した。全てのAIプロジェクトは、以下の3つの問いに答えなければならない。
- 事業機会の規模: その取り組みは、測定可能なビジネスインパクトを生み出すほど大きいか?
- 顧客体験の向上: それは、真に顧客の体験価値を高めるものか?
- 実行の正当性: その複雑性やコストは、得られる価値に見合うか?
4つのアルゴリズムによる投資フレームワーク
この規律あるアプローチは、さらに具体的な投資の指針へと落とし込まれている。ハジャリが示した4つの主要なアルゴリズム投資領域は、LVMHのAI戦略の根幹をなすものだ。
- 創造性の向上 (Enhancing Creativity): デザイナーの能力を拡張する。
- 顧客獲得 (Acquiring the Right Customers): データに基づき、適切な顧客にリーチする。
- 顧客体験の強化 (Enhancing Client Experience): パーソナライズされた体験を提供する。
- オペレーションの卓越性 (Improving Operational Excellence): 需給計画などを最適化する。
このフレームワークは、LVMHのAI戦略が単なる理念ではなく、具体的な投資判断と事業成果に直結していることを示す強力な証拠である。
これらの課題を乗り越え、LVMHは未来に向けてどのようなビジョンを描いているのだろうか。
6. 未来への展望と成功の定義
最終セクションとして、LVMHがAIと共に描く未来の姿と、その成功を測るための具体的な指標を提示する。これまでの哲学、戦略、そして実践が、最終的にどのような組織的成果とブランド価値の向上を目指しているのかを総括する。
三本柱からなるパートナーシップ戦略
急速に進化するAIの世界において、LVMHはオープンイノベーションを重視している。ド・ピレが説明したパートナーシップ・エコシステムは、以下の三本柱で構成されている。
- 大学(スタンフォード大学など): 最先端のテーマに関する深い研究協力。
- ハイパースケーラー(Google, SAP, Microsoftなど): 基盤技術におけるネイティブなイノベーションの導入。
- スタートアップ: パリのStation Fで展開する「lambism」プログラムを通じた体系的な協業。具体的には、①単一メゾンでのパイロット、②グローバル展開、③エコシステム全体への統合という、明確な3段階のプロセスでイノベーションを取り込んでいる。
今後2年間の成功ビジョン
ド・ピレは、今後2年間の成功を測る指標として、単なる財務的成果だけでなく、より包括的なビジョンを掲げた。
- 全従業員によるAIの包括的活用: AIが一部の専門家だけでなく、組織のあらゆるレベルで日常的に活用されている状態。
- 部門横断的なプロセスの変革: AIによってサイロが破壊され、より効率的でインテリジェントなワークフローが実現されていること。
- ブランドの魅力向上: ラグジュアリーにおける究極の成功指標。AI活用がブランドの魅力を高めていること。
- 世界中の優秀な人材にとって魅力的な職場となること: 革新的な企業文化を醸成し、最高の人材を引きつけること。
さらにハジャリは、これらに加えて「採用率」を重要なパフォーマンス指標(KPI)として維持すると述べた。LVMHは、ツールの導入だけでなく、現場での「採用率」こそが真の成功を測る指標であると認識しており、これは多くの企業が見落としがちな、極めて実践的な視点である。
最終目標の再確認
LVMHの最終的なゴールは、技術そのものではない。AIという強力なツールを活用して、消費者がLVMH傘下のブランドに対して抱く「欲求(Desire)」を極限まで高めると同時に、ラグジュアリーの本質である「人間らしさ」を決して失わないこと。この一点に集約される。
結論
LVMHのAI戦略の核心は、テクノロジーを人間の代替物としてではなく、人間の能力、創造性、そして顧客との感情的なつながりを増幅させるための「見えない力」として捉えている点にある。彼らが掲げる「クワイエット・テクノロジー」という哲学は、AIをあくまで人間中心の思想のもとに位置づけ、ラグジュアリーの最も重要な資産である「ヒューマンタッチ」を強化するための手段として活用するという、明確な意思を示すものだ。
LVMHの「クワイエット・テクノロジー」戦略は、単なる技術導入の成功事例にとどまらない。それは、AI時代における「ラグジュアリーの定義」そのものを再構築する試みであり、今後この領域に参入するブランドは、技術力のみならず、自社が持つ本質的な人間的価値とは何かを改めて問い直されることになるだろう。
Company Profile
株式会社ビーツ
ビーツは、スペースデザインと店舗デジタルソリューションを最適化するマーケティング企業。
クリエイティビティにデータやテクノロジーを組み合わせることで、リテールという最強の顧客接点で体験できるブランドエクスペリエンスを進化させ、生活者のリアルな感動・喜び・信頼を生み出す心地よい「共感」を創出している。
公式サイト
https://www.beeats.co.jp/
ワールド・モード・ホールディングス株式会社
ファッション・ビューティー業界を専門に、人材、デジタルマーケティング、店舗代行など多様なソリューションを提供するグループ。
iDA、BRUSH、AIAD、AIAD LAB、フォーアンビション、VISUAL MERCHANDISING STUDIO、双葉通信社の7社の国内事業会社を擁し、シンガポール、オーストラリア、台湾、ベトナム、マレーシアに海外拠点を展開。各社の専門性を掛け合わせたシナジーにより、顧客の課題に応じた実効性の高いソリューションを提供している。
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